はじめに
出典が定かではないですが、学習方法を研究するうちに見つけた2つのフレーズが、学習をしていくうえで結構な肝を表す良いフレーズではないか?と思うようになりました。
『基礎は無意識に落としこむほど反復してこそ、本当の土台となる。』
『基礎は常に更新、あるいは再構築されるものである。』
『叩き込む→まっさらに戻す→叩き込む』のプロセスって意外とできるものではありません。特に自分にとって得意な型を見つけた後の成長曲線は自分でも実感できるだけに「少し」楽しかったりする時期。これをまたゼロに戻して苦行を味わうかと思うと、信じられない労力を伴います。
無意識化、というところには食いつく(いい意味でも悪い意味でも)方は多いかもしれません。アスリート、アーティストといった反射神経の塊の総合芸術だとこれは言いえて妙、学術系だと若干リスクを伴うのかな、とも思ってみたり。
それでもたとえば日本語を聞いて「あ、これってどう言うんだっけ?」と考える間もなく英語に訳せるとか、そういった意識スピードを極限まで高めていくと前段の無意識化にちかいところまで行くような気がします。
そこまで反復して無意識化すると、いかなる状況においても基礎として叩き込まれているから、ある一定のクオリティでアウトプットし続けます。
① ゲシュタルト崩壊
極限の緊張感、環境の激変による自信の喪失、そういったネガティブ要素が意識において「ゲシュタルト崩壊」のような状況に陥ることがあります。自身の経験も踏まえて、よくある事、と言いきっちゃいますが、あります。
いわゆる「真っ白になる」ってやつですね。
ゲシュタルト崩壊(ゲシュタルトほうかい 独:Gestaltzerfall)とは、あるものの全体的な姿からその全体性が失われ、それを構成する個々の部分がばらばらに切り離されて認識されてしまう現象のことで、異常知覚の一つです。
例えば漢字や顔をよく見ていると、それぞれのパーツに分かれていき、ひとまとまりのものとして認識できなくなるなどの現象です。
この現象は幾何学図形や文字、人の顔など、視覚的なものに多く現れるものですが、時に聴覚や皮膚感覚において生じることもある、とされています。
もともとこの言葉は心理学用語として使用されていて、全体を認識する能力が低下してしまうことを意味します。その個体が持つ姿かたちの全体像が崩壊し、構成している個々の部分に切り離して認識してしまう現象を、大きく指してゲシュタルト崩壊と言います。
たとえば、縦に「○×公園」と書いてある看板が、「○×ハム園」としか見えなくなってしまうなどが簡単な例として挙げられます。
また夏目漱石の『門』にはこのような会話があります。
「御米、近来の近の字はどう書いたっけね」と尋ねた。細君は別に呆れた様子もなく、若い女に特有なけたたましい笑声も立てず、「近江のおうの字じゃなくって」と答えた。「その近江のおうの字が分らないんだ」(そして「近」という字を書いてみせる御米。) 「どうも字と云うものは不思議だよ」と始めて細君の顔を見た。 「何故」 「何故って、幾何容易い字でも、こりゃ変だと思って疑ぐり出すと分らなくなる。この間も今日の今の字で大変迷った。紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違ったような気がする。仕舞には見れば見る程今らしくなくなって来る。——御前そんな事を経験した事はないかい」 「まさか」 「己だけかな」と宗助は頭へ手を当てた。 「貴方どうかしていらっしゃるのよ」 「やっぱり神経衰弱の所為かも知れない」
ゲシュタルト崩壊は疲労のサイン?なのか?ということは良く語られていて、現在の考え方では、ゲシュタルト崩壊が起こったとき、頭や目が疲れているのかなと考えがちですが、必ずしもそうとは限らない、というのが通説です。
この現象についてはまだ解明できていない点が多くあります。原因としては、自分が見ている映像を脳の中で処理するとき、その過程が普段とは違うものに変化することで起こるものと、現段階では考えられています。
つまり、ゲシュタルト崩壊が起こっている時、いつもとは異なる認識の仕方、考え方、思考ルートを辿っていつもとは違う脳細胞を使ったり、その組み合わせが変わったりしている時に起こるというわけです。
演奏中に、ふと臨時記号のシャープ(♯)が井戸の井に見えて、なんで「井」がこんなところにあるんだろう?などと言う邪念から始まり、付点32分音符とかのハネが音符と言う記号ではない、何ら情報を持たない装飾に見えたり、全音符が土星に見えたり、もう本来瞬発的に読み取らねばならない我々にとっての台本が絵本になっちゃう。
もうこうなると、右手と左手は本能と記憶の赴くままに弾き倒すしかない訳ですが、いつ何時間違うともしれないカミソリなみに細い道を歩んでいる緊張感を味わいます。
そんな事が有っては困るから、あっても困らないために『基礎は無意識に落としこむほど反復してこそ、本当の土台となる』として血肉とするわけです。
②無意識化の弊害、ゲシュタルト崩壊からのリカバー
ココは心理学のサイトではないので、無意識化と言う言葉の定義は「意識しないでも基本所作として身についている基礎領域」と言った程度のものです。従って、心理学でよくある「無意識とは脳内の記憶としては存在するけれども、本人が意識できない領域」とかいうものではありません。心の領域を「意識」と「無意識」に分ける理論は、フロイトが提唱しユングが発展させていますが、ああいう深いものではありません(コラw)。
これ、良い型にはまっていれば無意識化によるルーティーン、悪い型にはまってしまったら「クセ」と呼ばれます。なぜか身体が勝手に動く、ってやつですね。
だからこそ、「頭を使いましょう」ってことなんです。
なぜこの行動はこうなのか?なにゆえにこうしなくてはならないのか。ゲシュタルト崩壊を意識的に起こしてそこから再構築する(あんまりできたことは無いですが)ことが出来るくらいに理論に裏付けされた考え方、これは無意識化に反する動きですが、これもまた必要なのですね。
無意識の領域まで高めつつ、それでいていったん分解して、なんでこうなるのか?と考えて再構築する。
クラシックの世界の例ではありませんが、Billy Sheehanというベーシストがいます。
ビリー・シーン(Billy Sheehan, 1953年3月19日 – )は、アメリカのハードロックバンド、Mr.Bigのベーシスト、アメリカニューヨーク州バッファロー出身。かつては「ビリー・シーハン」と日本語表記されることもあった。本人は「ビリー・シーアン」と言っている。
ロックシーンにおける、超絶技巧派ベースヒーローの一人である。
~Wikipedia~
音楽の土台を支えるリズムとメロディをつなぐ裏方のイメージが強いベーシストを一気に花形にまで持ち上げたスーパープレイヤーですね。歳食ってるのは知っていましたが64歳ちゅうのに驚きですが。
彼は言いました。
「練習の過程で、必ず技術の棚卸をする。それこそすべてをゼロに戻してそこから再構築する。ピッキングのタッチ、何でこの角度なんだろう、これはどうやってたっけ?苦痛が伴う作業だが、そこから新しく生まれ変わる」
ここまでやると、まず真っ白になることは無いだろうな、と経験則から言えますが、なったとしても、そこからその場で再構築できるだけの積み重ねがある、と言えます。
ま、そんなところを超越しちゃっているBilly Sheehanから心に響くメッセージを。
「音楽をしたいという気持ちが先だ。大切なのは出す音、奏でる音楽だよ。技巧にとらわれて見失いがちだか、音楽でなくなってしまう。この音が弾きたい、この音色を出したい。それが原点だよ。上達は志の数歩あとを追いかけたまに追いつく。そんなもんだよ」
練習頑張ろう。
ということで、また次回。