オーケストラで思わず吹き出すクラシック空耳(替え歌)!『ブラームス編』

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思い入れのフレーズを思い浮かべ口ずさむと、ついつい違う世界へ連れて行ってくれるような不思議な魅力を秘めた曲は何世代にも引き継がれて、クラシックとなり現代にまで脈々と生き残って、今もなお一つのジャンルとして隆盛を誇っています。そんなクラシック作曲家の中でも、コアなファンを持つブラームス。違う世界へ連れてく場面数ではおそらくクラシック界でもトップクラスとも言われますが、そんなメロディーを口ずさんでいると、ふと思いつくクラシック空耳、、、全然違う世界にぶっ飛ばされる魔力。バシルーラより強力かもしれません。

と言うことでまとめてみたクラシック空耳『ブラームス編』、はーじまーるよー!

『ブラームス 大学祝典序曲ハ短調 作品80』

1879年にブレスラウ大学から名誉博士号を授与されたが、これは大学側がすでに著名作曲家であったブラームスへのなにがしかの祝典的な音楽作品を提出してくれることを望んでいたと言われている。
この曲が作曲された時代背景としては、1877年に交響曲第2番を作曲して大成功をおさめ、その翌年にヴァイオリン協奏曲(1878年)、そしてこの『大学祝典序曲』及び『悲劇的序曲』(1880年)、ピアノ協奏曲第2番(1881年)といった管弦楽作品を発表した時期である。
ドイツ帝国ではあの鉄血宰相ビスマルクがアメとムチ政策でビシバシ国民をしばき倒しつつ、いくつかの大きな戦争を経て、直近では普仏戦争(1870年)においてナポレオン率いるフランス帝国との戦争に勝利して賠償金をガッポリせしめた時代の少しあと。
まぁナポレオンといっても「余の辞書に不可能の文字はない」とのたまったことになっているあの彼ではなくて、甥っ子さん(ナポレオン3世)ですけどね。
さらには周辺国との同盟政策で盤石の態勢を築きつつある時代背景。
「その頃日本では・・・」という流れで行くと、1978年はかの有名な紀尾井坂の変が起きて大久保利通が暗殺され、81年にはハワイ王国のカラカウア王が世界一周旅行の途中に訪日して、当時の皇族とカイウラニ王女の結婚を申し出て断られるといった時期である。
朝廷と徳川幕府の間だけでも揉めに揉めまくった訳で(徳川家茂・和宮の公武一和の為の降嫁問題、しかもこれって勅許がないままに海外と通商条約を結んじゃった事に端を発している)、何ともまぁすごい時期である。

と、まぁ話を戻すと、そんな時期のブラームスは公開用の祝典的ファンファーレを毛嫌いしていたこともあり、御礼の言葉を記した感謝状を贈っただけで済ませていたが、友人に諭され(大人の対応を促され)、1880年の夏に訪れていた保養地バート・イシュルで、名誉博士号の返礼として本作を作曲した。1881年1月4日という年明け早々に、ブレスラウ大学当局によって開かれた特別集会において、ブレスラウのオーケストラ協会を作曲者自身が指揮して初演された。「聴衆の中の教職員の多くは、悪ふざけで口惜しがってみせた」と言われる。

そんな祝典的な曲調に合わせてひとしきり主題が終わった後のAnimato、ファゴットの二重奏から、
『バラが咲いた~ バラが咲いた~』
以上です。

『ブラームス 交響曲第2番ニ長調作品73』

1877年に作曲。重厚な構造、劇的な展開が前面に打ち出され、苦悩から解放へ、というベートーベン的性格が前面に打ち出された交響曲第1番に対して、これとは対照的に伸びやかで快活な雰囲気を示す。「一発出してみたら意外とポンポン行けるじゃん」という、交響曲第1番という難産を果たした当時のリラックスした気分が反映されているとも考えられている。第1楽章の牧歌的な響きから、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」にたとえられ、「ブラームスの『田園』交響曲」と呼ばれることもある。
1877年12月30日、ハンス・リヒター指揮のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演され大成功を納めて第3楽章がアンコールされたという。2楽章じゃないんだw。

そんな交響曲第2番第4楽章Allegro con spiritoから417小節目、ホルンが唸り歓喜につぐ歓喜でフィナーレを迎える最後のおいしい部分にて。

『すがーもこまごめ!すがーもこまごめ!
にっぽりにっぽりにっぽりにっぽりにっぽりにっぽりにっぽりにっぽりうえの~!!』
田端とか鶯谷はどこ行った!

そしてまだまだ続くブラームスの空耳。やはり異次元の存在である。

『ブラームス 交響曲第3番ヘ長調作品90』

1883年作曲。ブラームスの交響曲の中では演奏時間が最も短く、のっけから始まる金管の強奏に驚かされ、新鮮かつ明快な曲想で知られる。初演者ハンス・リヒターは、「この曲は、ブラームスの『英雄』」と表現したが自身は標題音楽とのメッセージは残していない。
1883年12月2日に、友人であるハンス・リヒターの指揮により、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会で初演され大成功を納めた。
当時のドイツ音楽界は、ブラームス派対ワーグナー派という二大陣営の対立構図であったが、1883年にワーグナーが没してまもないタイミングということもあり、ワーグナー派の強い反発のなかでの初演だったと言われる。それゆえワーグナー派で反ブラームスの急先鋒でもあったフーゴ・ヴォルフは、「まったく独創性というものが欠けたできそこないの作品である」との批評を残している。ご自分の意見なのか派閥としての意見なのか、政党政治みたいで面白いっちゃ面白い。

ちなみにこの曲はドイツの温泉地ウィースバーデンにて作曲された、とされており、ヴィースバーデンでは、友人達との親交や、とりわけアルト歌手ヘルミーネ・シュピースとの恋愛感情がこの曲に影響を及ぼしたともいわれる。ブラームス50歳、シュピース27歳の暑い夏であった。夏なのに温泉。

そんな恋心を歌ったのか知る由もないが、あまりにも美しい第3楽章 Poco allegrettoから。

『はなかーらミルク、はなかーらミルク』
Or
『おれーはージャイアン、おれはージャイアン』

シュピースのかけらもありません。

『ブラームス 交響曲第4番ホ短調作品98』

交響曲第3番の翌年1884年から1885年にかけて作曲された最後の交響曲。第2楽章でフリギア旋法を用い、終楽章にはバロック時代の変奏曲形式であるシャコンヌを用いるなど、擬古的な手法を多用している。
このフリギア旋法、英語で書くと「Phrygian Mode」。旋法とか言われてもわからないけれど、なんちゃモードと言うことであれば、ドリアンだのリディアンだのミクソリディアンという言葉の響きなら知っているぞ、という方もいらっしゃるかも。
ルート音から半音、全音、全音、全音、半音、全音、全音の流れとなり、特にフリジアン・ドミナント「Phrygian dominant scale」と呼ばれる第3音を半音上げたスケールでは、ハーモニックマイナースケールとの相性が良い。もともとフリジアンはダークな響きが特徴であり、さらに他のスケールと組み合わせて使うことで、一層不思議でダークな響きを演出することが出来る為、現代におけるロックやポップスで多用されている。
特にこのフリジアンドミナントとハーモニックマイナースケールの組み合わせにかけて天才的なセンスを誇るのが、スウェーデンが誇る天才ギタリスト、イングヴェイ・ヨハン・マルムスティーン(Yngwie Johan Malmsteen、1963~)であり、驚異的なテクニックとインパクトある響きが後世にイングウェイフォロワーを生み出したが、ココでは全くと言っていいほど関係がない。
この諦観とも取れる侘しさを感じる曲調は、死期が迫った芸術家にありがちな晩年の傑作、というものではなく、ブラームスは交響曲第4番を作曲してもなお活動を続けている。
1890年あたりから老いを感じ始め創作活動から手を引きつつも、なんだかんだ言ってクラリネット三重奏、五重奏、そしていくつものピアノ作品にて傑作を書き残している。とは言え壮大な管弦楽曲という観点では交響曲第4番が最後の大作と言えるかもしれない。
その後96年に亡くなったクララ・シューマンの後を追うように97年に肝臓癌で亡くなっている。

そんな古い様式に独創性とロマン性を盛り込んだ、円熟した作品の第1楽章冒頭部、まさに諦観の境地にありながら、最後の断絶魔の叫び・・・。
『ハ~ゲ~ヅ~ラ~、 ハ~ゲ~ヅ~ラ~、い~い?ダ~メ、い~い?ダ~メ・・・』

若きリヒャルト・シュトラウスは、父親への手紙にてこう書き記している。
「間違いなく巨人のような作品です。とてつもない楽想、そして創造力。形式の扱いや長編としての構造は、まさに天才的」と。
初演指揮者のハンス・フォン・ビューローの助手として、シュトラウスは、初演の際にトライアングルを担当したと言われ、第3楽章で大活躍したに違いない。が、ココでは全くと言っていいほど関係がない。

ってなところでまた次回。

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