マイケル・レビン(Michael Rabin, 1936年5月2日 – 1972年1月19日)はアメリカのヴァイオリニスト。
7歳からジュリアード音楽学校でイヴァン・ガラミアンに師事。10歳の時に、アルトゥール・ロジンスキの指揮するハバナ・フィルハーモニー管弦楽団とヴィエニャフスキのヴァイオリン協奏曲第1番を弾いて注目を集め、12歳でパガニーニのカプリース集を録音した。1950年には、ディミトリ・ミトロプーロス指揮のニューヨーク・フィルハーモニックと共演し、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番を演奏して、カーネギー・ホール・デビューで大成功を収めた。1951年にはテレビ番組にも華々しく登場、1952年にはオーストラリアに演奏旅行を行う。1954年より演奏旅行と録音のために欧州にたびたび訪れるようになり、チャールズ・ヴィダー監督の映画『ラプソディー』にも音楽スタッフとして参加していた。
スタジオ録音は1959年頃を境に行わなくなったが、1960年代に入っても放送コンサートは継続していた。しかし、1960年代から次第に私生活で感情のコントロールが効かなくなるなどの不安定を示すようになり、舞台から落下するのではないかという妄想にかられるようになっていった。1960年代末には麻薬の常用が囁かれるようになり、ついには1972年マンハッタンの自宅アパートで誤って転倒し、そばにあった椅子で頭部を強打したことにより36歳の若さで死去した。
レビンは「ハイフェッツの再来」と謳われ、右手の弓さばきがよどみなく、そこにガラミアンの教授法による、リュシアン・カペー譲りの近代的なボウイングが加わり、音色に力強さと輝かしさを習得した。その完成された演奏技巧は、1958年にステレオ録音されたパガニーニの24のカプリース全曲にもうかがわれる。
然しながら早熟の天才として表舞台に出た後のプレッシャーに打ち勝てず、伸び悩み大器となるには至らなかった。死因について、薬物に犯されたので、自ら命を絶ったとも、自分の不幸を嘆いて机の角に頭をぶつけたとも、また麻薬の過剰摂取で命を失ったとも、いわれている。