ナタン・ミロノヴィチ・ミルシテイン(Nathan Milstein 、1903年12月31日オデッサ – 1992年12月21日、ロンドン)はウクライナ出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。1942年にアメリカ合衆国の市民権を取得。89歳の誕生日を目前にイギリスで没した。
母親の奨めでヴァイオリンを学び始め、11歳のときレオポルト・アウアーの招きでペテルブルク音楽院に入学、アウアーのロシア時代の最後の弟子の一人となる。ロシア革命により1917年にアウアーがノルウェーに脱出してしまうと、キエフに戻り、ウラジミール・ホロヴィッツと知り合い、意気投合し、しばしば共演するようになり、1925年には西ヨーロッパでの演奏旅行も一緒に行なった。この頃にはウジェーヌ・イザイの門も叩いている。1929年にストコフスキー指揮のフィラデルフィア管弦楽団によりアメリカ・デビュー。
若い頃は、同門のヤッシャ・ハイフェッツの後塵を拝し、「技巧は完璧だが深みや精神性が足りない」と言われていたが、50歳を過ぎてからはそのような評も少なくなり、極めて高度な技巧と豊かな音楽性を備えたヴィルトゥオーゾとして讃えられた。
傑出した超絶技巧の持ち主ではあったが、それを前面に押し出す演奏には消極的だったと言われる。むしろイザイを通じて身につけた、歌心と美音を尊重するフランコ・ベルギー楽派の優美な演奏スタイルが際立っている。そのためしばしばミルシテインは、「ヴァイオリンの貴公子」と称される。
多くのヴァイオリニストが最晩年には演奏活動から引退することが多いが、ミルシティンは技術的衰えなくキープし続けていたことは特筆に値する。特に右手(ボウイング)の切れ味は緩急、変幻自在であり、極めてクリアな音色を紡ぎだしている。
これが元々兼ね備えた歌心と相まって名演を生み出すことになる。
来日しなかったことで知名度という点では同門のハイフェツに劣るものの、晩年、高齢になってもそのテクニックは衰えることなく、1972年にはクラウディオ・アバド指揮、ウィーン・フィルとメンデルスゾーン、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を録音、1973年にはバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」の全曲を録音し(2度目)、圧倒的な技巧と表現力で演奏され、非常に快速なテンポで弾き進められて行くが、技巧に支えられた音色は美しく格調高い。
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[…] ② Nathan Milstein […]